特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その5 | office_hiroko

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 和光大学A棟816号室を根城にさまざまな活動を展開する山本ひろ子研究室。学内のはみ出し者、山伏、学外から勉強しにきた外人と様々な人種で構成され、いまや一種のアジール(聖域)と化している。毎週一回のゼミの後、夜会と称して山本先生を囲んだ懇談会を開催しており、そこに連れ込まれていつの間にか一員となった者も数多い。ゼミとは別に、有志による勉強会も随時開いている。また学外の学びの場である成城寺小屋講座にも主体的にゼミのメンバーは関わっている。長野県蓼科の山荘や、高知県物部町の「和光大学ものべ荘」、そして鶴川の「岡上ハウス」などの拠点を持ち、日々勉強に邁進する。本HPはそんな山本研の活動の一端を発信すべく2011年5月にリニューアルした。

特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その5

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 山本ひろ子先生が爐い兇覆流瓩肪り着く前に経た場所とは、芸能の宝庫・三信遠の境を接した山里でした。前回はそこで活躍する、「幣取」の「宮太夫」、「鍵取」の「若太夫」という修法者の姿を、神社の棟札に、神楽の詞章に、そして在地の民間習俗のなかに見いだしアウトラインを描いてゆきました。はたして彼らは一体どのような存在だったのか、そして爐い兇覆流瓩悗隼核楡萓犬鯑海い燭里呂いなる着想であったのか…。いよいよ今回で「呪術と神楽」第1回「法太夫の住む村」は完結します。

 

呪術と神楽――日本文化論再構築のために
  第一回 法太夫の住む村(その3)

(『みすず』443、みずず書房、1998.2)


◇法太夫の伝承――法競べ譚と鎮めの面

大昔、山内の字宝(あざほう)の地内に、法若太夫(……山内に来て切開き住い致し、……と言い伝えがある)という法使いが住んでいた。或る年の夏、京都から七人の法使いが揃って乗り込んできて、法くらべをやった。
先ず法若太夫が法力をみせるために、部屋の障子を締め切り、一枚の障子をヒトマスだけ切り抜いておき、藤の布に包んだ茶臼を天に上げる法を使った。法若太夫が柏木を打って法をかけると、茶臼は障子にあけたヒトマスをすりぬけて天へ昇り、定めた刻限に下りてきて、もとに納まった。
今度は、七人の法使いが錦の布に茶臼を包み法をかけたが、天まで届かず直ぐ落ちて来てしまった。
七人の法使いは負けて逃げようとしたので、法若太夫は「シノ法」を使い、六月の土用であったが大雪を降らせて、法使いたちの足を止めてしまった。
負けた七人は宝の地内で自刃したのでそこに埋葬し、以来ここを七人塚というようになった。
村人は七社明神と呼んで、この七人を祭っている。法若太夫の住んでいた跡や旧墓も近くにあり、後年村人は「モウソウ様」(法若殿を模した像)として、祭るようになった。

(「法若太夫」『豊根の伝承』)


鍵取=「若太夫」にまつわる伝承である。七人の法使いとの「法競べ」で勝ったという話*註5は、まことに「法若」を名乗るにふさわしい(「宝」という地名は、「法」に由来するものかもしれない)
 なお都から来た法使いを「七人」としたのは、奥三河にも数多く分布する「七人みさき」にちなんでいよう。旅の途次に行き倒れで死んだ者、山や川で変死した者、また狩りで事故死した者の死霊は祟りがあるとして畏れ、塚を築いて祀った。
 さて法若太夫は死後に「モウソウ様」として祀られたという。事実、山内の湯立ての歌ぐらに、「宝地大明神・もうそう・明の七社明神……」と見えている。「モウソウ」は不明だが、「模像」ではあるまい。少なくとも「モウ」は「亡霊」の「亡」だろう。みさきは「モウレイ塔」として祀られたからだ。
 ところで右の伝説にはまだ続きがある。

また、法若太夫の住まいの軒先に、何時の頃に切り倒したか、木の名前も不明の切株と並んで、直径約二十五センチ、高さ十メートル余の香の木が残っている。昔その根元に「マエビツ」(ケヤキの木の皮だけで作ったおひつ、蓋付きで大事なものを納めるのに使ったという)が据えてあるのを、三代位前の近くのおぢいさんが子供の頃、見たことがあるという。金でつくった「ホウヨリボウ」もそこに埋められていると言い伝えられている。(同右)


 マエビツ・ホウヨリボウ。法若太夫の呪力の源泉を彷彿とさせる品々だ。「ホウヨリボウ」は法依り棒、文字通り法使いが用いる棒だろう。
 法依り棒には伝説のヴェールが纏わりついているが、確固として実在する太夫ゆかりの呪物がある。花祭の終盤、「鎮め」という次第で花太夫が破る「鎮めの面」がそれだ。
 注連を張り、あらためて結界された〈山〉で、「火王(ひのう)」・「水王(みずのう)」と呼ばれる面を被った二人の花太夫が舞い納める行事で、今なお他見を禁じている地域もあるように秘儀的性格が強い*註6。それゆえにか鎮めの面はきわめて神聖視されており、太夫といえども厳重・細心の扱いを要した。禰宜屋敷‐花太夫の家とは、鎮めの面を代々伝世してきた家と言うこともできる。
 鎮めの面と法太夫の関係にまつわる言い伝えがある。

長野県地内大川内の祭りには、現在も「しずめ」すなわち「ひのう」と称する面形を蔵しているが、これを被るほどの資格を具えた者がないとの理由で、面箱に納めたままになっている。この面が被られぬものとして一つの伝説がある。何でも今から一〇〇年ばかり前のことというが、ある年の祭事に三河の山内(北設楽郡三沢)から「ほう太夫」という禰宜が来て面形が被られぬわけはない、俺が一つ被って進ぜるとあってこれを被ったところ日本中が一目に見えたのに吃驚して、面形をその場に投り出したまま匆々村へ逃げ帰った。さてわが家へ帰ってみると、女房は気が狂って子供を刺殺して死んでいる。老母はと見るとこれも気が狂っていて、厩の馬もまた狂い死に死んでいた。これを見た「ほう太夫」もまた気が狂って、一家ことごとく気狂いになって死んでしまった。それ以来その屋敷に住む者は、不具者や気狂いが絶えぬという。
このこと以来大川内ではいっそうこの面を畏れて、面箱の蓋を堅く閉ざして開けることはない。ちなみに現在山内の小字に宝(ほう)という所があるから「ほう太夫」はそこに関係ある名らしい。

(『花祭』前篇)


 山内と峠ひとつ隔てた長野側との信仰の運搬・交渉が偲ばれると同時に、人に請われて祈祷・祭に赴く太夫の活動が透かし見える伝承である。「俺が一つ被って進ぜる」と名乗り出た山内の法太夫が、あながち傲慢とばかりは責められまい。なぜなら鍵取・幣取の家とは鎮めの面をもち伝える家であり、太夫とは鎮めの面形を被る資格を有した、特権的存在であったから。
 面形を粗末に扱ったため、神の怒りにふれて法太夫の一家が狂い死にしたという話の本質は、面の聖性‐侵犯というテーマを通して、異能者の血筋を外部に排除した点に求められよう。ムラの外からやって来た宗教者は、その異能ゆえに共同体内部の秩序意識によって、時に「狂気」、「異常」として外化・表象されるからだ。
 さて花祭の面形のなかで「鎮め」の面に並んで重要なのが鬼面である。そもそも花祭と言えば鬼が連想されるほど、鬼の芸能はひときわ目立つし、また人気がある。今でこそそうした風習は廃れつつあるが、「榊鬼」と「山見鬼」(山割鬼)という役鬼は、特定の家筋の者しか舞うことができなかった。鬼の家は、禰宜屋敷に次ぐ格式を誇ったのである。 鬼の面が畏怖されたのはむろんだが、鬼が踏むマジカル・ステップ=「へんべ*註7(反閇(へんばい))は、舞処を踏み鎮めるばかりではなく、病人祈祷・新築の家祈祷などにも効験があると信じられた。東栄町・月の花祭では、今でも榊鬼が立願者の家を回り、病人の患部を踏んで祈祷する。以前はその時に「十種(とくさ)の祓」(ふるへの祓)を唱えながら修すのがしきたりであった。

「十種の祓」というのは、石上鎮魂法にゆかりの呪文で、榊屋敷(栗林家)では中世的な「十種の神宝(かんだから)」を図絵した巻物が代々伝わっている。
 現当主の栗林義登氏が幼少の頃、屋敷の下手の寺が火事になった。その時祖父が巻物を前に置き、真っ赤な障子に向かって「拝んで拝んで拝みこくったのを覚えている」という。「十種の神宝」の巻物。それは榊屋敷の格式を示す家宝であると同時に、榊鬼の職能の継受を保証する呪物にほかならない。実際の祈祷の際に、その効能を仰いで祓いの呪文ともども用いられたよすがが窺える*註8



◇三つの「法の枕」をめぐって
 三沢山内の鬼屋敷の場合、鬼面と共に伝えられていたのは、「ほうまくら」という奇妙な物であった。

大入系の三沢では、「さかき」「やまみ」の役に限って、これを次代の者に譲る場合には、面形に附属して「ほうまくら」(頬枕か)と別に白木綿で縫った袋で、中には小豆が三升入っているという。これは新調することはない。代々面形とともに引き継いだものであるから、いつの時代のものか判らない。そうして役を勤める間はその者が大切に保管していたのである。「ほうまくら」を頬枕とすると、白木綿は腹に巻いたものと考えられるが、これ等は実用とは引き離して長持ちの底などに蔵っておいた。この二品が、面被りを勤める者の手形の如きものであった。これは親から子に役を譲る場合も、必ず受授が行われたのである。
(『花祭』前篇)


小豆が三升入った「ほうまくら」は早川孝太郎を悩ませたらしい。彼はその正体を「頬枕か」と想像したが、もちろんこれは「法」の枕であった。わたしがそれを「法」の枕だと確信しえたのは、ほかの地域に「法の枕」なる物が少なくとも二つ実在していたからだ。しかもきわめて個性的な実践法を伴って。

ひとつ目の「法の枕」は、大井川流域の梅津神楽(静岡県榛原(はいばら)郡)でかつて実修された神子(かんご)式に用いられた。神子式は産湯式/産着式/三笠山の三段構成で行われるイニシエーション儀礼で、三笠山の場面をハイライトとする。
梅津神楽の祭場には、四間四方の大天蓋の中に可動式の小天蓋(三笠山)が設置されていた。三笠山の儀礼になると、神子(立願者の子供)は小豆の入った白布製の「袋」を膝の下に当てて三笠山の直下に座る(この袋は先に神前に供えておく)。神主が綱を引いて神子の上に三笠山を降ろし、神歌を歌いつつ左右に揺らしながら引き上げる。これを三度繰り返すと神子入りの儀礼は完了した。
三笠山を揺らすことで降臨した神霊を遊ばせ、活性化させる。その三笠山にすっぽりと覆われることで、神子は霊力を全身に受けて賦活・再生するわけだが、豆袋、すなわち一種の「法の枕」の使用によって霊的パワーは増強されるにちがいない。同じく説明書きは残っていないが、鬼屋敷ゆかりの「法の枕」と通い合うものといえるだろう。
第三の「法の枕」は名称も同じで、ほかならぬいざなぎ流に見出すことができる。こちらは前二者と異なり、曲げ物などの丸い容器に七升の米(穀物)を盛り、御幣(高田の王子幣・荒神幣・山の神の幣など)を立てた物で、一種の祭壇とみなせようか。藁製の輪に御幣を差した「みてぐら」ともども、「法の枕」はいざなぎ流の太夫にとってもっとも根本的で、かつ重要な祭壇・呪物なのだ。
 後に述べることになろうが、いざなぎ流の祈祷・神楽を特徴付けるものが「取り分け」と呼ばれる儀礼である。家や周辺に存在する「すそ」(呪詛)を集め、祓い、元の場所に帰ってもらう呪法で、あらゆる病人祈祷・家祈祷・神楽に先立って修される。この「取り分け」で必須の祭壇・祓具が「法の枕」と「みてぐら」であった。このふたつさえあれば、そこは太夫の祈祷場となるといってもよい。
 奥三河の花祭・奥大井川の梅津神楽、そして土佐のいざなぎ流。三つの「法の枕」の存在と用途はなかなかに暗示的だ。前二者は、呪能の継承を保証する呪物であり、いざなぎ流の場合は「法」を駆使する祭壇・呪具として機能しているわけだ。
 「法の枕」ばかりではない。その使い手たる「法」太夫の存在、その法術にまつわる伝承の内実は、奥三河の神楽といざなぎ流との思いがけない類縁性を示しているのではあるまいか。

◇もうひとつのサイン=「高田」を祀る
 花祭は芸術的といえるような高度な構成をもっている。東栄町の多くの花祭では、開催に際してまず、「高嶺(たかね)(根)祭」と「辻固め」で花宿の周囲を結界する。「高嶺祭」は、天空からやってくる天狗・天白などを封じこめる祭法とされる。続いて行われる「辻固め」は、高嶺祭の地点と対角になる場所を選び、注連を張って結界する。こうした野外での結界作法が済むと、花宿での祭が始まることになる。
 さて二十数時間続いた祭の終結が花太夫の呪法=「鎮め」で締めくくられると、最後の神返しが行われる。「五穀祭」(大将軍の返り遊び)で天狗・天白などを打って返したあと、「外道(げどう)狩り」でまだ花宿に居残っている下級の精霊たちを「辻固め」の地点まで追い立てていく。そして地面に御幣を突き差して納めると、一昼夜続いた祭はようやく終了する。
 祭最初の「高嶺祭・辻固め」と最後の「外道狩り」は明瞭な形で対応しており、花祭の儀礼的秩序をヴィジュアルに示すものといえるだろう。ただし、こうした様式は必ずしも一般ではないし、また本来的な形かどうかも疑わしい。
 花祭がモデルとした母胎の大神楽の次第書をみると、確かに「高嶺祭」という行事が祭の序盤に行われている。けれども山内に伝わる古い次第表では、「たかたをまつり」、「たかたを祭るべし」となっており、「たかね」という言葉は使われていない。とまれ「たかたを祭る」は、やがて「高根祭」という次第名として定着をみせ、花祭の一角にも結界神事として取り込まれていった。畢竟「高嶺」は、ムラの小高い所での祭という通念を派生させるに至る。大神楽の「たかたを祭る」とは、はたして現行の高嶺祭のようなものであったのか……。
 ここで想起されるのは、いざなぎ流の「法の枕」に立てられていた「高田の王子」という御幣である。しかもこの高田の王子幣は、ただの御幣ではなく、「取り分け」儀礼で特殊な役割を担う。最後の「鎮め」で、「高田の王子の行ない」という呪法に用いられているのだ。
 「高田を祭る」と、「高田の王子の行ない」。ひょっとして……と、とりとめのない類想に胸がざわめく。「法太夫」も然り、「法の枕」も然り。大神楽・花祭のなかに暗号のようにばら蒔かれていたカードを、無意識のうちに拾っていたのかもしれない……。
 こうしてわたしは、いざなぎ流の世界の扉を開けることになった。

*註
5 こうした「法競べ」を彷彿とさせる演目が花祭にある。榊鬼と禰宜の問答で、山から訪れた鬼は「位競べ」でも負け、「榊引き」でも負けて山を譲るのである。
6 豊根村山内や下黒川などでは、幣取・鍵取の伝統を引き、花太夫は二人である。これに対し東栄町では一人がほとんどで、月では花太夫家(森下家)伝来の「龍王の面」を被って「鎮め」を舞う。拙稿「龍王鎮め」(『大荒神頌』所収、岩波書店、1993年)。
7 花祭の鬼の反閇については、拙稿「榊舞の成立―修法から鬼舞へ」(『フォークロア』No.5、本阿弥書店、1994.11)、注(3)「花祭の形態学」。
8 拙稿「榊鬼と柴取鬼」(『フォークロア』No.1、本阿弥書店、1994.2)。

*本文中の地名の表記などについて、その後の合併等で変更しているところもありますが、原文のままで掲載しています。


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山本ひろ子先生のプロフィール 山本ひろ子
日本宗教思想史専攻。70年代に生まれた「寺小屋教室」にて、原典購読を中心とした活動を続ける。
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