特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その4 | office_hiroko

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 和光大学A棟816号室を根城にさまざまな活動を展開する山本ひろ子研究室。学内のはみ出し者、山伏、学外から勉強しにきた外人と様々な人種で構成され、いまや一種のアジール(聖域)と化している。毎週一回のゼミの後、夜会と称して山本先生を囲んだ懇談会を開催しており、そこに連れ込まれていつの間にか一員となった者も数多い。ゼミとは別に、有志による勉強会も随時開いている。また学外の学びの場である成城寺小屋講座にも主体的にゼミのメンバーは関わっている。長野県蓼科の山荘や、高知県物部町の「和光大学ものべ荘」、そして鶴川の「岡上ハウス」などの拠点を持ち、日々勉強に邁進する。本HPはそんな山本研の活動の一端を発信すべく2011年5月にリニューアルした。

特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その4


 魔法。という魅惑的な書き出しから始まった「呪術と神楽」の第1回。幸田露伴をガイド役に日本の魔法修行者たちを訪ね、いよいよ�いざなぎ流�へと話題は迫ってゆきます。とその前に、山本先生の�回り道�に我々も同行してみましょう。

呪術と神楽――日本文化論再構築のために
  第一回 法太夫の住む村(その2)

(『みすず』443、みずず書房、1998.2)

◇奥三河・法太夫の住む村
misuzu tizu.jpg三河・信州・遠州が接する天龍水系の山里には、花祭・霜月祭・冬祭等など霜月神楽系の祭・芸能が分布している。
 そのうちわたしが研究の対象としてきた花祭*註3は、中世後期に成立した共同祭礼・大神楽(おおかぐら)から分岐・特立した祭で、修験道的性格が色濃い。愛知県北設楽(したら)郡東栄町・豊根村・津具村が伝承地で、今も十一月から三月にかけて夜を徹した祭が繰り広げられている。 十数箇所に及ぶ開催地の中で古い伝統を誇る、三沢山内に目を向けてみよう。豊根村の北東部に位置する三沢地区(粟世(あわよ)、山内、牧舟、樫谷下(かしやげ)、間黒(まくろ)の五つの大字)は、山を隔てて長野県阿南町、天龍村、富山村に接する、まさしく国境いのムラである。


 花祭を見学するには新幹線で豊橋へ出て飯田線に乗り換え、東栄駅で降り、バスで終点の本郷へ行く。この本郷がいわば奥三河のターミナルで、ここから各地区へはさらにバスを乗り継ぐことになる。しかし三沢への路線バスはとっくに廃止されてしまったため、車、またはタクシーで向かうしかない。花祭の地区のなかでも三沢山内は思いきり遠い所という感が強い。
 豊根村の中心地石堂から粟世に向かう山道を走って行く途中で、さっきまでは晴れていたのに吹雪に見舞われたことが何度もある。これは阿南東栄線と呼ばれる県道で、粟世から牧ノ島を経て新野(にいの)峠を越えると雪祭で知られた新野・阿南町に出る。そんな土地柄から、三沢は古くから長野県と交渉をもっていた。
 三沢山内は下組・山住組・宝(ほう)組からなり、現在二十数世帯が住む。中心地は山住地区で、商店や花宿となる公民館もここにあるが、かつては粟世の神社が三沢の中心だったと伝えられる。
 その神社(のちの諏訪神社)とは熊野権現・諏訪大明神・清水大明神・牛頭天王を祀る大社で、粟世村・樫谷下村合同の社であった(近世の山内は、樫谷下村の山内組みに属する)。金幣が二度に亙って盗まれたため、明治六年(一七六九)に社殿を修築、金幣を新造して奉納した。その時の棟札に次の記名が見える(『豊根村誌』資料編2)

粟世・樫谷下惣氏子
 神主 夏目丈右衛門
 大市 熊谷八郎兵衛宜実
 幣取 山内宮太夫
 鍵取 山内若太夫
 願主 (略)


 神主のほかに「大市」と、「幣取(へいとり)・鍵取(かぎとり)」なる職掌があったわけだが、このうち「幣取・鍵取」に注目したい。なぜなら幣取・鍵取こそ、大神楽・花祭にあって神楽太夫・花太夫として補佐役の宮人衆を従え、祭祀を執行していた司祭者であり、在地の宗教者であったから。大神楽の祭文*註4には次のように歌われている。

子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の年に至るまで、
年々厄難・月の厄難もかかり申せしとき、
一の幣取り・鍵取り、たが烏帽子・にこ烏帽子に、
石のかどをも踏み鎮め、……百八品の数珠を揉み鳴らし候……

(上黒川「おりいの遊び」)


 棟札にあるように、三沢の場合「幣取」は山内の林家で、代々「宮太夫」または「宮太郎」を、「鍵取」は榊原家で「若太夫」を名乗った(ちなみに隣接する田鹿(たしか)では幣取が守屋家、鍵取が鈴木家であった)。現在でも山内の花祭は、林家と榊原家の当主が花太夫として祭事を執行している。なお榊原家の下手の「さんじゃく」(のちには参事役と表記される。三浦家)と呼ばれる家は幣取・鍵取に継ぐ家筋で、祭事に携わった。
 「幣取・鍵取」が村にとっていかに重要な存在であったかを、正月行事で見ておくことにしよう。

◇「門囃し」と「八帖ならし」
 多くの地方と共通して、正月行事は若水取りに始まる。豊根では除夜の鐘が鳴りおわると同時に主人が汲むところがほとんどだが、作法はさまざまで、粟世では、「諏訪の池 水底照らす 小玉石 手にはとれども 袖は濡らさじ」と歌い(ちなみにこの歌は花祭の歌ぐらでもある)、次に「ナム アビラウンケンソワカ」と三度唱えながら、その年の月の数だけ沢の水を汲む。また牧ノ島では、その年の明きの方角(恵方(えほう)。歳徳神が宿る)の川上と定められている。
yazu.jpg 汲んだ若水は神棚に供えておき、青木の枝で家屋敷を浄めたあと、庭の南天か松の木の根元に納めておく。そして夜が明けると若水を沸かし、雑煮や芋の吸い物を煮て門神のヤス(藁で作った祭具)に供えたあと、家族でいただくのである(豊根村教育委員会編『豊根の伝承』)
 早川孝太郎が調査した昭和初期の三沢では、若水を沸かす前に「門囃し」と「八帖ならし」という二つの行事が必須であった。

 「門囃し」の立役者は「さんじゃく」である。元旦の未明に鍵取屋敷に出向いたさんじゃくは、村の氏神の門囃しをするよう命じられ、稗二升を容れた袋を受け取ると、村の二の旦那の家(熊谷家)に行き、稗袋を納めて氏神の門囃しに参る由を述べる。二の旦那は松などを用意してさんじゃくと一緒に氏神の社殿に赴く。門囃しが済むとさんじゃくは、一の旦那の家(夏目家)に報告する(このあと、一の旦那と二の旦那は自家の門囃しをする)と、鍵取の家にとって返し、屋敷裏の龍王社の門囃しをし、続いて屋敷の門囃しをする。それを見た谷向かいの辻家で門囃しをすると、ほかの家もそれにならって門を囃した(早川孝太郎『花祭』後編)
 「門囃し」というのは、氏神社を皮切りに各門戸に門松を飾る行事らしく、早川も「一般にいう門松飾りを門囃しと言っている」と述べている。しかし本来は、「囃し」という名称にふさわしい祝言・芸能を伴っていたはずだ。
 ここでは連想されるのが粟世・神明社の三月十六日の祭で、かつては田楽があり、打ち囃し・こだねまき・へほりねぎ・魚釣り・とりさしなどが行われた。その打ち囃しの詞章は新年に門を囃す祝言となっているから、元は「門囃し」で歌われたとみて間違いないだろう。

東西しずかに春くれば     みかどにごようの松を立て祝うべし
せんざいちよともさかゑたり  まんざいちよともさかゑたり
年の始の年男         まづよねうちまき水くめば
みずをくみ上[げ]きよめつゝ  をまゑあがりてうつつづみ
あやのごもんをおしひらき   にしきのみとちよをまきあげて
いずみまいたわさゝよね    をまへにかけたみすのうち
ちよやまんざいましませば

(本田安次「三沢の花祭」『霜月神楽の研究』)


 さて「門囃し」と並行して行われるのが「八帖ならし」で、こちらは幣取が勤めた。未明に屋敷裏の飯縄八天狗を祀る山に登り、榊を一枝折り取ると氏神の社に行く。「門囃し」の終わった門飾りに注連を張り渡し、白紙に榊の枝を通した「八帖」を結び下げるのである。終わると一の旦那・二の旦那宅に行き、同じく門飾りに八帖をならし、次に鍵取の家をならしてから、自分の所の飯縄八天狗と神棚をならした。
 「八帖ならし」は今でも行っている所がある。初詣に一家の主人は紙を二枚重ね、青木の枝を差した「八帖」を持参し、氏神様の注連縄に吊るして参拝する。お宮参りが終わると、家の神棚と門松にも一枚ずつならす。なおこの八帖は陰陽道の八将神(大歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)の八体を表しているという(『豊根の伝承』)
 「門囃し」で祝った門飾りに注連を張って「八帖ならし」をするのは、邪霊が侵入しないよう八将神に守護してもらうためだろう。年越しに棚を造り、歳徳神を祀る習わしからもわかるように、吉凶の方位を司る陰陽道の八将神は年神としても尊奉されたらしい。
 こうして「門囃し」と「八帖ならし」が終わると、初めて竃に火が入り、若水を使っての煮炊となる。

 この「はちじょうならし」が終わるまでは、若水は汲んで用意してあるが、爐を焚くことも湯を沸かすこともせぬのである。鍵取り、幣取り、一の旦那、二の旦那等の屋敷から爐を焚きつけた煙の上るのを見て、一般の家では初めて爐に火を焚きつけたのである。(『花祭』後編)


このように年始の行事「門囃し」と「八帖ならし」は、鍵取(その代行者としての「さんじゃく」)と幣取の見事な連携プレイとして行われている。氏神→分限者の家→禰宜屋敷→その他の家というルートは、旧家を中心としたムラのヒエラルキーと信仰共同体としてのありようをそのままに映し出す。
 では村の有力者の神主・旦那層に比して、鍵取・幣取とはどのような存在なのか。それをくっきりと示す伝承がある。(「論考を読む」次回につづく)

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*註
3 花祭と大神楽に関する主な拙論には以下のものがある。「大神楽『浄土入り』」(前掲書所収)、「神楽の儀礼宇宙―大神楽から花祭へ」(『思想』No.858,No.860,No.865,No.877,No.880、1995年〜1997年)、「花祭の形態学」(『神語り研究』4号、春秋社、1994.7)。
4 「おりいの遊び」など大神楽の祭文については、註3「神楽の儀礼宇宙」参照。引用の祭文は、豊根村教育委員会編『神楽の伝承と記録』所収。

*本文中の地名の表記などについて、その後の合併等で変更しているところもありますが、原文のままで掲載しています。


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日本宗教思想史専攻。70年代に生まれた「寺小屋教室」にて、原典購読を中心とした活動を続ける。
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