柳田國男「ネブタ流し」を読む | office_hiroko

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柳田國男「ネブタ流し」を読む


 2011年度前期のゼミでは、柳田國男の「毛坊主考」を主要なテキストとして扱い、毎週レジュメによる発表を行いました。さまざまな視覚からの読みが可能なこのテキスト。今回は鈴木君による「ネブタ流し」の章の紹介と自身の考察を掲載します。

◆柳田國男「毛坊主考」を読んで
 柳田國男の「毛坊主考」は、多面的な作品である。表題のとおり、地方の集落で半俗半僧侶生活を送る念仏の徒についての話もあれば、シュク茶筅などの被差別的な扱いを受けていた人々の生態とその信仰について、また、各地に残る由来のわからなくなった塚や山という異界の周辺にたむろしている者(童子)たちについての話もあった。この多様性は、「毛坊主考」が「郷土研究」誌上に連載されたものであるということに由来する。柳田のその時々の関心や気分に沿って論が進んでいくのだ。それ故、ゼミで読む際、章が変わると全く別の話題になり、柳田の興味深い具体例を次々と繰り出す文体も相まって柳田初心者の自分には読みづらさを感じた面もあった。しかしながら、「毛坊主考」には、それを凌駕する内容の濃さと、柳田の問いの鋭さがある。今日はその中でも、「ネブタ流し」の章を主に扱いながら、神様を〈招き/送る〉ということを考えてみたい。

◆柳田の見た“ねぶた”
 奥州の夏はねぶたとともに始まるといっても過言ではない。笛や太鼓の囃しに「ヤーレ、ヤーレ、ヤーレヤ」などの掛け声をはり上げる老若男女が山車燈籠を引き連れ町を練り歩く。柳田自身も、明治三十九年の八月に青森にて津軽海峡を渡る船を待つ折、「偉大なる紙張の人形を西洋顔料で彩つたのを長い竿の突端に立て、其張子の中には火を燈して、市街の電線を邪魔にしつヽ諸方から遣つて来る」ねぶたの姿を見聞している。この章が大正三年のちょうど七月に発表されたことの裏には、七夕やお盆の行事との関連を述べたりする内容との関連や、この行事が行われる季節に合わせたという意図があるだろう。それがわかるのも自由度が高い連載形式をとるが故であり、一つの作品が出来上がっていく経緯や動機を推測できるのは興味深いことである。

◆人形流しとしてのねぶた祭り
 さて、本論に入っていこう。柳田はまずネブタの起源伝承を確認した後、祭の最後に川で燈籠を流す行動に注目する。「自分が実盛送りの序を以てネブタ流しを説かうとするのは、全く之を一種の人形祭と観るが為である」と言うように、害虫や疫病を攘却するために依り代となる人形を村落の境で燃やしたり、川に流したりする実盛送りと同種の行事として、ネブタ流しを見ているのだ。現在の我々が普通イメージするねぶた祭は巨大な山車燈籠を曳きまわすものなので、そこだけ見ると近世の風流的な見世物祭りとも一見みえる。だがここで柳田は、地域の口碑や伝承、他の地域の攘却行事を参考にして、ねぶたを“御霊祭”の一種として捉えていこうとしているのだ。
 このあと柳田は、「実盛送り」のような害虫や疫病が流行った時に臨時に行われる祭りではなく、夏と秋との境に定期的に行われるお盆の聖霊送り・盆踊り・七夕の行事を俎上に載せる。その検討の中では、神であり、祖先の霊であり、疫病をもたらす悪いモノを丁重に送るという形式の重視に注目し、これらを広義の御霊祭の性格としての〈送る〉ことの視点からみていく。
 そして、「津軽其他の佞武太が聖霊送りの燈籠と通例之に伴う犠牲の人形の合体したものであるらしい……其目的の何であつたかは、……凡そ人の身に属する災害即ち流行病などの御霊を攘うものと見て置かう」と結論付けて、最後にネブタ又はネムリという名義にこだわって驚くべき論を繰り出していくのだ。それは、ネブタ流しの際に川に流されたものは、昔は燈籠や人形ではなく、神をその身に宿し、昏睡状態(即ちネムリ状態)に陥った生きたままの人間だったのではないかという推論だ。詳しい論証は本文にあたって頂きたいが、ネブタ神(眠神)の事例、栃木のネムタ流しの事例などを出して、「事によるとずつと大昔の神送りには、毎季一箇づヽの人命を反故にしたことのあつたと云ふ一の論拠になるかもしれぬ」と述べ、「ネブタ流し」の章が締めくくられている。

◆盆踊りと神送り
 この柳田の議論を足がかりに少しだけ、盆踊りと神送りの関係を見ていきたい。上で確認したように、柳田も盆踊り・掛け踊りに言及して御霊祭りの一種だと見ている。それを確認するのに、ここで日本の盆踊りの古態を残していると名高い信州遠山谷の盆行事に目を移そう。その中の「新野の盆踊り」では、最後の夜明け前に「能登」という踊りが部落の境に向かって踊られる。この行列にはお盆の飾りとして飾られた家々の切子燈籠がすべて持ちよられ、行列が境に達するとそこで燈籠は燃やされる。こうして仏様や神様をあの世に送り、みな後ろを振り向くことなく村に戻ってくる。ここでは燈籠という盆飾りがネブタ流しで見たような人形ではないにせよ、同様の機能を果たしていることが認められ、やはりお盆の期間に迎えた祖霊やもろもろのモノを丁寧に送り返すことを重視していたことがわかる。

新野の盆踊り「能登」


◆依り代としての身体
 このように盆踊りの最後の「送り」の場面では、なんらかの寄り代に付けて攘却するという形式がみられる。とすれば、その前の踊りの最中にも神様は関係していたのではないのだろうか? もちろん祭りの場に招じた祖霊や神々と一緒に楽しくわいわいと夜を明かして踊り狂うということが供養につながる、だから盆踊りを行う、と考えることがまず可能だ。しかしそれだけではなく、>盆踊りを踊ることによって自らの体に神を降ろし、この世ならぬものと一体化することを目的としたのではないだろうか? その証拠として盆踊りをする際の衣装に注目したい。例えば和合の念仏踊りでは「垂」を付けた笠をかぶって踊るし、大海の放下踊りでは、もっと明確に神の寄り代と認められる大きなウチワの様なものを背負って踊っている。また、坂部の掛け踊りでは、その名の通り伽藍神など集落内の様々な社や新盆の家々へ踊りを掛けて廻る。土地の代表的な神から新しく迎えた祖霊を、踊りという身体作法を通じ招じて共に遊ぶ。これが盆踊りの古態でないだろうか?

和合の盆踊り


大海の放下踊り




 以上みてきたように、日本の民俗では神を〈招き/送る〉ということを節目ごとに行っていた。そのひとつが夏から秋へと季節が変わるお盆であった。ここに仏教の祖霊信仰(念仏)の影響が加わり、特に「祖霊」を迎え送る行事へと変質していた歴史がみられるのではないだろうか。柳田の「ネブタ流し」を通して、神を送ることへ日本人がいかに気を配り、丁寧に行っていたかを垣間見ることができた。現代のねぶた祭りをただ漫然と見ているだけではわからないところまで論を進めていく柳田の方法には、引き込まれるばかりだった。少しでもこの「ネブタ流し」、ひいては「毛坊主考」が多くの人に読まれますように、と思って書いたこの駄文。最後まで読んでくださってありがとうございました。〔鈴木昂太〕

参考文献:柳田國男「毛坊主考」
三隅治雄『日本芸能史のルーツ』新葉社, 1986年

トップ写真提供:青い森の写真館


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日本宗教思想史専攻。70年代に生まれた「寺小屋教室」にて、原典購読を中心とした活動を続ける。
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