特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その2 | office_hiroko

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 和光大学A棟816号室を根城にさまざまな活動を展開する山本ひろ子研究室。学内のはみ出し者、山伏、学外から勉強しにきた外人と様々な人種で構成され、いまや一種のアジール(聖域)と化している。毎週一回のゼミの後、夜会と称して山本先生を囲んだ懇談会を開催しており、そこに連れ込まれていつの間にか一員となった者も数多い。ゼミとは別に、有志による勉強会も随時開いている。また学外の学びの場である成城寺小屋講座にも主体的にゼミのメンバーは関わっている。長野県蓼科の山荘や、高知県物部町の「和光大学ものべ荘」、そして鶴川の「岡上ハウス」などの拠点を持ち、日々勉強に邁進する。本HPはそんな山本研の活動の一端を発信すべく2011年5月にリニューアルした。

特別企画――物部・いざなぎ流関連小論 その2

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 今回ご紹介する論考は、2000年刊行の『太陽』(平凡社)四国八十八ヵ所巡礼の旅の特集号に収録された一編です。スピリチュアルブームの昨今、巡礼の旅も10年前とは様変わりしました。民間信仰いざなぎ流を伝える土地・物部を、かつての「巡礼」というフィルターを通してみたら何が見えてくるのか……。現在ゼミで格闘中の柳田國男『毛坊主考』の内容とも関わってくる漂泊の宗教者たちが、これから行く物部の地を往来していたと思うと、より一層想像力を掻き立てられます。では、皆さんもご一緒に巡礼の旅へ。

巡礼者と「隠れ里」伝承

(『太陽』平凡社、2000.8)


 独得な民間信仰「いざなぎ流」や平家落人伝説を伝える高知県物部村。八十八ヵ所霊場からも離れたこの秘境の村に、その昔、関東から四国巡礼の行者が訪れていた……
「隠れ里」に新たな信仰のドラマをもたらした、巡礼者たちの物語


祈禱者たちの村・土佐物部村

 黒潮踊る、雄大な土佐の海。けれども内陸側をふり仰げば、眼前に山が迫る。四国は、海からすぐに山になるという感が強い。そういえば、土佐出身者に聞いたことがある。四国の山間部ではかつては、海を見ることもなく一生を終える人びとが少なくなかったと。
 距離にしてはわずかでも、海との往来を容易ならざるものにしているのは、険峻な山岳や生活条件ばかりではなかったろう。(こも)ることによって育み、鍛えられていく習俗もあったはずだ。
 重畳(ちょうじょう)と連なる山々の深部で、培われた精神風土とはいかなるものであったのか――。いざなぎ流の伝承地・物部村もそんな想像をかきたてる村である。上韮生(かみにろう)村と槇山(まきやま)村の合併でできた物部村では、太夫(たゆう)(もとは神子(みこ)といった)と呼ばれる人びとが、山仕事などのかたわら、村人に雇われて病人祈禱や神祭り、先祖供養などを行なってきた。その内実には驚嘆すべきものがあるが、ここではふれない。
 川に沿って国道を走る限り、目に飛び込む風景は、ごくふつうの山村のたたずまいなのだが、地元の人の四駆に乗せてもらい、曲がりくねった、けもの道のような林の中を突き進んでいくと、山はしだいにその異界性をむきだしにしてくる。高度があがるにつれて、緑の深淵に意識が吸い寄せられていくような感覚だ。
 鬱蒼たる樹木のバリケードがふと途切れ、ようやく空が少し顔を覗かせたかと思うと、驚くほどの高地に、数軒の家が虚を突くように現れる。犬の声、小川のせせらぎ。たわわに実ったゆず玉の美しさ。平家の落人(おちうど)伝承が生きているのもさもありなん。この景観に、なぜか隠れ里の狡知と祈りを感じとってしまうわたしであった。
 とまれ、「巡礼」というフィルターを通し、物部村を眺めてみることにしようか、しばし……。

廻国聖・六部の伝承――日光院をめぐって

 かつてどれほどの旅の宗教者たちが物部村を訪れたことだろう。彼らのほとんどは、時間の堆積に埋もれ、名前すら記憶されていないのだが、「日光院」という修験者だけは、いくつかの伝説を残した。なかでも有名なのが、笹部落の「権現岩(ごんげんいわ)にまつわる伝承である。

〈ある年、讃岐の金毘羅(こんぴら)様へいく途中、笹の大岩を通りかかった日光院は、弟子に「あの大岩を割ってみよ」と命じたが、弟子は割ることができなかった。すると、日光院は、「ではわしが割ってみせるから、割れて落ちたら、山の中腹で止めよ」と言って法術を使うと、岩は割れ落ち、弟子は見事に中腹で止めたという〉 

 法力競(くら)べの伝説自体は珍しくはないが、死後に日光院は祠(ほこら)として祀られ、弟子筋の者たちが「天台流」と呼ばれる、いざなぎ流の一法流をつくり、代々「日光院」を名乗った。
京都や奈良で活躍したとも言われる初代日光院の事歴は不明だが、気にかかるのは「日光院」という院号である。ひょっとして、関東の日光山にちなむものではあるまいか。
周知のように日光山は古くからの修験の霊地で、中世以降は、関東における天台宗の一大拠点となっていた。あれこれ類推するに、法術にたけた、伝承中の日光院の原像は、東国よりやってきた(ひじり)ではなかったか。
日光院の祠(物部町別役)

ところでこの伝承は、別ヴァージョンがあって、想像力にさらなる拍車をかける。

〈昔、槇山の六部(ろくぶ)行者が、弟子と共にたまたま笹の中番を通りかかった。行者は法力を試してみようと思って、「あの岩を割ってみよ」と命じた。さっそく弟子は、岩に登り、錫杖(しゃくじょう)で岩を打つと、火煙がもうもうと立ち上ったが、岩は崩れなかった。次に行者が錫杖を振り上げると、大岩がすさまじい音をたてて、真っ二つに割れ、半分は下に崩落した。残った半分の岩が今の「権現岩」と言われている〉

六部 『日本風俗図絵 』.jpg こちらでは「日光院」という名前ではなく、「六部行者」として語られているのが興味深い。

 六部とは、「六十六部」(略して「六部」)と呼ばれた廻国聖(かいこくひじり)たちのことで、浄写した法華経を全国六十六ヵ国の霊場に一部ずつ納めて廻った。西国三十三観音霊場の巡礼納経にならったとも言われており、六部の廻国ルートは、一部で四国巡礼とも重なっている。
六十六部『日本風俗図絵 第7輯』 
 
 江戸時代になると、行脚(あんぎゃ)僧ばかりではなく、在俗の六部も輩出するようになる。藺草(いぐさ)で作った六部笠をかぶり、鼠木綿の着物に同色の手甲・股引・脚絆をつけ、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた。滅罪を目的とした「経聖(きょうひじり)=中世の六部は、時代の移り変わりのなかで、しだいに乞食的・芸能者的な門付けへと変貌を遂げたのだった。


代々の日光院がまつる役行者(土佐山田町佐野)

 さて伝説中の「六部行者」という表現から、日光院は六部として巡礼・修行の途次、物部村に住みついたという消息が偲ばれよう。江戸中期の随筆『塩尻』の引く六十六ヵ国の巡拝路・霊場をみると、四国は、阿波国の太亀寺→土佐国の五台山→伊予国の一宮→讃岐国の白峯宮となっている。とすればこの六部行者は、五台山を参拝の後、物部村にやってきたのかもしれない。遊行聖(ゆぎょうひじり)のなかには、廻国の途次、村のお堂や庵に住み、そこで一生を送る者が少なくなかった。
 そもそも六部は関東出身者が非常に多く、江戸時代には、関東天台の本山=東叡山寛永寺と依存関係にあったという事情も無視できない。なによりも見逃せないのは、六十六ヵ国の第一番が下野国の「瀧尾山(たきのおざん)」とされていること。瀧尾は、日光山きっての修行地・別所であった。
 関東(おそらく日光山)からやってきた六部(日光院)が、物部村に止住(しじゅう)し、天台流を名乗り、いざなぎ流の一派を形成した……?
 いざなぎ流というと、やたら陰陽道(おんみょうどう)的性格が強調されるきらいがあるが、実は法華経の信仰は、いざなぎ流祈禱の一大源泉をなしている。いざなぎ流の起源を語る重要な祭文(さいもん)(「いざなぎ祭文」)が、太夫の始祖というべき主人公の姫宮を「法華の行者」として描いているのも偶然ではあるまい。
 たったひとつの伝説にすぎないが、「日光院」と「六部行者」の像を重ねたとき、おぼろげながらその背後に、幾人もの六部たちの姿が浮かび、消えてはまた像を結ぼうとする。天台流だけに限ることではない。いざなぎ流祈禱の強力な基盤をなす法華の信仰は、もしかしたら、関東からきた六部たちによって伝えられたのではあるまいか、と。

平家の落人伝説

 秘境・物部村の深い山々は、廻国の宗教者たちを引き寄せる一方で、追われる者・逃亡者たちに安住の地を提供し、〝隠れ里〟 伝承の生成に寄与することになる。
 元歴二(一一八五)年、壇ノ浦の戦いに敗れて、幼帝・安徳天皇は海の藻屑と消え、さしもの栄華を誇った平家一門もついに滅んだ。しかし物部では、入水したはずの平知盛(たいらのとももり)はひそかに安徳天皇を奉じ、陸路より阿波の山中に隠れ、やがて上韮生・槇山の郷に入ったと伝えている。岡ノ内には、一党が隠れ住んだという「平家の岩屋」があり、安徳天皇の墓所とされている地も一カ所ではない。
 そのひとつが楮佐古(かじさこ)高板山(こうのいたさん)である。多くの貴種流離譚と同じように、ここでも高板山に辿り着くまでに、「巡礼」の旅を経ねばならなかった。

 〈昔、安徳天皇は阿波の剣山(つるぎさん)に隠れ住んでいたが、長年の山中生活に飽きて「ふたたび田に鳴く蛙の声を聞いたら、死んでも悔いがない」と嘆いた。そこでおつきの人びとは決心し、剣山を出、山越えをして物部村の金輪木(かなわぎ)までやってきた。日がとっぷりと暮れ、頼るべき人家もなかったので、一行は飢えを我慢し、大きな洞窟で一夜を明かした(そこでここを、「大泊」という)
 早朝一行は、そこから十町ほどの平坦な地に移動、大きな岩に七つの竃(かまど)を築いて飯を炊いて食事したあと、一ノ瀬、大野などを経て、高板山に到着なさったという。七つの竃を設けたので、ここを「ナナツヘツイ」と云い、岩を竃の神として祀り、縁日には、鏡餅、洗米、お神酒、灯明を供えて祀るようになった〉

 かくして上韮生・槇山の各地を遍歴した天皇の一行は、やがて高板山に到着し、一ノ森、二ノ森、三ノ森を知行した。天皇の亡くなったのち、その御陵は、代々、安丸家が奉斎してきたという。
このような平家の落人伝説は、語り継がれていく過程で、いざなぎ流の起源伝承と交響し、求め合って、融合を遂げる。
一説によれば、平家が一門の再興を願って、源氏調伏(ちょうぶく)の祈禱の祭をしたのが始まりという。またいざなぎ流の一法流(別府(べふ)の伝)では、いさなぎ流の始祖は、岡ノ内の「平家の岩屋」に隠れ住んだ小松氏の娘で、別府に移り住んでから神の啓示を受け、神楽(かぐら)祈禱を編み出したと伝えている。

巡礼する貴種と祭の起源

 廻国聖たちの足跡にくらべて、平家の落人伝承はいささか頼りないとはいえ、貴種流離と祭の発祥との結びつきに、〝伝承〟というものの本質が見え隠れする。ここで目を東国に転じてみると……。
 天龍水系の山里(愛知県北設楽(したら)郡)、大入(おおにゅう)川と振草(ふりくさ)川に沿って分布している花祭は、霜月(しもつき)神楽に属する祭で、修験道の影響が色濃い。花祭の由来を語る所伝のなかで、ひときわ目立つのが、花山院(かざんいん)にまつわる伝承である。
 花山院(九六八〜一〇〇八)といえば、深夜に宮中を脱出、寺に入り剃髪するという劇的な退位に象徴されるように数奇な生涯を送った人物で、多芸に秀で、「風流者」と称された。また好んで熊野などを巡歴・修行した事跡から、那智山には花山院が籠ったという岩屋があり、院の前生は那智の行者とみなされた。やがて花山院は、西国巡礼の祖とも崇(あが)められるようになる。
 こうした漂泊者・修行者の俤(おもかげ)を漂わす花山院が、伝承の翼に乗って、遥か遠い奥三河の山里に「巡幸」したとしても不思議ではない。その部落は富永庄大入(おおにゅう)(現・東栄町)で、昔は、花山(はなやま)家と平野家の二軒しかなかった(やがてそれぞれに分家ができ、四軒となる)。花山院が籠ったというので、村の名は、元は「王入」、もしくは「皇入」と書いたという。
 花山院では、花山院の死後にその霊魂を花山権現として祀り、院の生まれ変わりを祈って花祭を始めたと伝えている。
 花山と名乗る家が先にあり、花山院の伝承を結びつけたのか、その逆で、伝承にあやかり後に花山家を名乗るようになったのか。とまれ花山家の当主は、代々花太夫(はなたゆう)として花祭を執行し、〝花山権現の家〟を継承してきた。うつろいがちな伝承は、祭や儀礼という形を与えられたとき、はじめてたしかな身体性を獲得するのだ。
 昭和の初期までは、花山家・平野家の四軒(のち七軒)の家で年番に花祭を実修してきたという。隔絶された山麓の村で、たった数軒の家の者たちが演じていく何十番もの祭――。すでに失われたこの幻景に、なぜか昨今のいざなぎ流の神楽が二重写しとなる……。

 隠れ里は、思いもかけない文化を生み出す。秘境という地理的条件は、外皮にすぎない。隠れ里をなりたたせる最大の内的因子こそ、「巡礼」であろう。巡礼という外からのエネルギーが、反転して土地の内部へと収斂し、葛藤と競合を経て、新しい文化が構築される。「伝統」を創造する磁場、それこそが隠れ里の本質なのかもしれない。◆
「日光院の祠」「代々の日光院がまつる役行者」(写真提供/高知県立歴史民俗資料館)


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山本ひろ子先生のプロフィール 山本ひろ子
日本宗教思想史専攻。70年代に生まれた「寺小屋教室」にて、原典購読を中心とした活動を続ける。
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